2012年1月15日日曜日

「とんでもない会話」の背景は?


 


かなり前のことですが、セラピストと患者さんのこんな会話が耳に入ってきました。


セラピスト「今の若い人は、高い税金を取られて、年金だって払った分もらえない。人間、50歳くらいで死ねるのが一番いいよね」。
患者「・・・・・・」(何と応答したのか、しなかったのか、聞こえませんでしたが)。

 セラピストは30代。患者さんは70代です。何故そんな会話に行きついたのか、前後の文脈は分かりません。けれども、当の患者さんや周囲にいる人たちに、どれだけこの言葉がダメージを与えたのか、を考えると憤りを覚えました(当然、厳重に注意をしましたが)。

 話した本人は、最初注意された意味が分からなかったようです。気心の知れた患者と雑談のついでに「本音」を語った、といった風で、注意されたことに対してそれほどピンときているようには見えませんでした。不真面目に仕事をしているわけでもありません。むしろ、よく機転が利いてチームへの貢献もできる人です。



 一瞬の出来事でしたが、今でも時々思い出します。そこには、いくつかの課題がありました。


*患者とセラピストの距離の問題:

同じ患者と長く関わることによって、セラピストは適切な距離を維持することが困難になり、つい素顔(本音)が出てしまう。それがメリットになることもありますが、この場合はデメリットになっています。気を許しすぎて立場を忘れ、言ってはいけないことを言っていることにも気付いていない。

 このような2者関係は、長期的な関わりの中で起こりがち。今後、介護保険分野でリハビリテーションの人的資源が潤沢になり、期限にも縛られず、他者の目も届かない状況下(在宅療法など)では、ますます2者間の距離を維持するためのスキルが必要になる、と予想しています。


*周囲への影響:

周囲とはたとえば、常連客が指定席に座り店主を独占しているお店に入った一見客、のような存在。この一見客の疎外感を、店主は意識しているのかいないのか。なじみのうすい患者は、同じ時間と空間で、セラピストの対応が微妙に違うことを敏感に察知していますが、セラピストは案外意識していない。

質の高いホスピタリティとは、クライアントに対して差別観や疎外感を与えないこと。これを実現させるには、ハード・ソフト両面での様々な条件を整える必要があります。すでに接遇マナーをはじめとする取り組みはされていますが、それだけでは十分ではないことを、改めて知る機会となりました。


*リーダーとしての気づき:

#1.彼らが今置かれているこの閉塞感に満ちた状況に、どれほどストレスを感じているか、は日々耳に入っていました。が、この様子では、臨床の場で本人も気がつかずに発散をしている可能性があります。「理想」と「現実」には当然ギャップがあります(理想と現実は「建て前」と「本音」とも言える)。本人が、自分の無意識の感情をキャッチしていないこともありますので、リーダーがこのギャップを知り、フィードバックをすることが必要です。

 #2.一方で、セラピストのストレスレベルとコントロール能力は、どのくらいあるのでしょうか。思ってもいない言葉が口から出たり、言ってはいけない、と分かっていても抑えきれないこともあります。このような時、本人には、プライベートな問題があるのかもしれないし、職場への不満があるのかもしれない。そもそも、仕事に対する価値観が違うのかもしれない。将来への不安がそうさせるのかもしれない。どれもが当てはまるような気もします。様々な仮説を立て、時を変え、場面を変えて検証をする。少なくともそうしている間は、短絡的な評価を下さずにすみます(かなりエネルギーの要ることですが)。



 *あれから:
 
 
 あの時は厳重注意をしましたが、それだけでは根本的に何も変わりません。注意するだけで改善するような、ケアレスミスではないからです。詳しいことは省略しますが、その後、セラピストに伝わった、と感じられたのは「共感」と「承認」から出た言葉でした(それができたのは、しばらくたってからですが)。

 
 
 

  今でも、あの時にセラピストの口から出たのは、単なる個人的な本音ではない、と思っています。同世代の人たちが、多かれ少なかれ抱いている気持ちを率直に口にしたのでしょう。とはいえ、井戸端会議で好きなことをしゃべってストレスを発散するのと、この場合ではわけが違います。対人援助を旨とする専門職としても、職場の理念からも、そのような言動を許容することはできませんから、同じような場面に遭遇した時は、指導をしていきます。

ただ、誤解を恐れずに言えば、「思ってはいけない」のではなく、自分の本音に対して自覚的であることが、セルフコントロールには大切です。これは、口で言うほど簡単なことではありませんが。さらに、表出する時と場を心得ることが「社会人としてのファウンデーション(土台)」です。簡単に身につけることはできないにしても。


様々な経験の中で醸成されていく価値観や、死生観があります。5年先、10年先に、冒頭のセラピストが患者さんとどんな会話をしているのだろう、と楽しみにしています。
 


2012年1月9日月曜日

「限界を知る・価値観が変わる」




前回のブログの更新から3週間が過ぎました。月ばかりか年まで越してしまっています。それまでは、次から次へと書きたいことがあふれ出ていたのに、パッタリ、うそのように頭の中が白紙になり、(これはスランプ?)書く代わりに、いくらでも眠れました。自分の記憶の中でもこんなに眠ったことはないほど。年末年始は体の要求に逆らわずに、眠ることを最優先にしました。「これは、頑張りすぎた疲れかもしれない」と、少し自分を労わりながら。





 昨年は、コーチングの有効性を知ってもらいたい、と非力ながらも自分にできる範囲の活動をしました。こんなに眠いのは、使い果たしたエネルギーを充電するためのものかもしれない、そう思いました。でも、実はどこかで「限界」を感じ始めてもいたのです。





 本当は、どなたが読んで下さるのか分からないブログに、コーチング絡みで「限界」などという言葉を書きたくないのですが。





 日常の業務や生活の中にストレスがあるのは当然のことですが、改めてそれ以外のどんなことに自分がこれほどの影響を受けていたのかを、振り返ってみます。




*今や特別のことではなくなった電車の人身事故の向こうには、年間3万人以上の自殺者がいます(もちろん、電車だけではありませんが)。この状況が10年以上も続いているのは、周知の事実。その数は毎年毎年、昨年の大震災の犠牲者を上回っています。この事実に気づかされ、予備軍や未遂者が既遂者の何倍いるのか、またその周囲に家族や知人がどれだけいるのか、を想像しました。私がどんなに想像力を働かせても、把握できるはずもないのですが。

自殺のリスクには、失業のほか配置転換、過労、昇進、破産、人間関係、その他実に様々なものがあります。そう考えると、人に向かって状況を知りもせずに「あなたの目標は?」などとは聞けなくなりますし、聞いてはいけないような気がしてきます。元々私にはエッジの効いた質問はできないのですが、これからはますますそうなりそうです。




*被災地で働く看護師の3分の1にPTSDが懸念される状態が、また3分の2に「うつ」につながりかねない「精神的不健康度」の高い人がいる(’11,12,30 朝日新聞)。

それでなくともバーンアウトに陥るリスクの高い看護師が、被災地では殆ど余力のない状態で、臨床に携わっているらしい。この傾向は長期化が予想されますし、今後ますます顕在化するでしょう。「ケアをする人のためのケア」が必要ですが、ここにコーチングを活用する場合には、コーチにコーチングフローの「ステップ0に居続ける能力」が求められます。また、それは他の(例えば、カウンセリングや緩和ケアにおける)手法と極めて似ているために、「これは(も)コーチング」と説明できるだけの根拠を必要としますが、自分の中ではまだ、説得力のある説明が難しい。


Twitterの書き込みには、「被災地の人は、みんな頑張って明るく振舞っている。けれども、疲れ果てている」とありました。当地に深く関わればこそ見えてくる事実なのでしょう。

明るく元気に振舞っているからといって、その人が本当に力のある状態、とは限りません。活力のあるように見える人が、突然駅のホームから身を投げることもあります。人は自分の全てを他者の前で表現しているわけではないからです。元気印のハイテンション(躁状態)とうつは、表裏一体。とすれば、「行動を促進しなければ」と意欲的に見えるクライアントの真の力量をアセスメントすることも、コーチには求められるのではないだろうか。クライアントの「心が折れる」前に。







いずれも、今の自分に直接関わりのある情報ではないのですが、時代の空気として少しずつ体の中に浸透してきますし、たぶんボディーブローのように効いてきているのでしょう。コーチングの実践と絡めて考えていますが、結果的に自分のエネルギーレベルは、低下しているような気がしますし、睡眠過多もその影響が大きい、と思っています。



もっとも、「時代の空気」から影響を受けているのは、私だけではないでしょう。私と関わっている人たちにしても、こちらから見えているのは氷山の一角ですが、水面下ではメンタリティやストレス耐性が低下しているかもしれない。何となくチームや組織全体のパフォーマンスが低下しているように感じられる時には、現場以外の様々な背景を考慮する必要がありますが、その中には直接的・間接的な「時代の空気」も含まれているでしょう。そのことを度外視して、現場の個人だけをコーチングの対象にしていても、事は運ばない。





ところで先日、ある方から、目が覚めるようなこんな言葉をいただきました。「機能維持は、廃用症候群からの回復です」。これは、障碍者の機能や生活を維持することが軽んじられている風潮に対して発せられたものです。この言葉は、何かを維持することの困難さと、「右肩上がりだけに、価値があるのではない」ことを教えてくれました。また、この視点は、臨床だけではなく職場の「目標管理」にも通じるものです。いただいた言葉に後押しされて、私の価値観は、ずいぶん変わりました。





コーチングは人材開発や育成に有効だと言われます。私の経験でも、コーチングが効果的に機能するクライアントがいることは、実感できました。予定よりも短期間に、予想よりも高い目標に到達してくれた時には、コーチ役の私まで嬉しくなります。元々力のあるクライアントだったのでしょう。

一方、それほどの余力もなく、未来を見ることもあまりしていない人たちが、10歩先ではなく、3歩先でもなく、未来に漠然とした不安を持ちながら、足元だけを眺めて歩いています(そのように、見えます)。このような人にどんなアプローチができるのか。あるいは、できないのか。今の私には答えが見つかりませんが、避けて通るわけにもいかないような気がしています。


色々なことがありましたが、以上のようなプロセスを経て、私は今年の課題を「ストレスコントロール」と「ブラッシュアップ」にしました。





このブログを書く気になったところで一段、ここまで書いてきたことでもう一段、エネルギーレベルが上がりました。今年の年末に、今日のブログをどんな状況で読み返すのか、が楽しみでもあり、ほどよい緊張もしています。




それでは、今日はこの辺で。





 

2011年12月17日土曜日

「コーチングの副作用」について


 コーチングには、薬やメスのような副作用がない、というのが定説です。コーチングの定義は「クライアントの行動を促進するコミュニケーションスキル」ですから、まさか副作用が伴う、とは思えません(でした)。これは私の勉強不足かもしれませんが、今まで手に取った書物にも、「副作用」や「失敗」を正面から取り上げたものはあまりなかった、と記憶しています。あったとしても、それは実施するもののスキルの未熟さゆえ、という取り扱い方です。つまりコーチが熟練しさえすれば克服できる類のもの、ということでした。



 最近私は、コーチング的な関わりをしているスタッフに危ういものを感じる、という経験をしました。それを副作用、と呼べばいいのか、アプローチのミス、と考えればいいのか、思案中です。今回は、そのことについてまとめてみます。





 Aさんは育児の真っ最中ですが、とにかく仕事が大好きで、いつも全力疾走で病院中を駆け回っています。部署内の課題に対しても積極的な提案をしてくれますし、仕事も速い。もちろん、人間関係にもそつがなく、リーダーから見れば、とても頼もしくて「できる人」。最近は、ますます行動に加速度がついて、私の期待値をいつも上回るという、パフォーマンスの高さです。しかも、家庭との両立も完璧(に見える)で、非の打ちどころがありません。でも、そんなAさんに、私はいつしか不安を覚えるようになりました。



 彼女に目標を立てるよう求めたのは私ですし、行動を促進するよう働きかけたのも私です。Aさんは、もともと上昇志向の高い人でしたが、家庭がありましたのでワークアンドライフバランスを保つために、幾分仕事のペースを落としているように感じられました。そこで、「あなたの実力は、そんなものではないでしょう」とばかりに、前を、上を見るよう勧めてしまったのです。結果的に、彼女は期待以上の働きをするようになりましたが、気がつくとまるでブレーキの効かない車のような走り方をしていました。このままでは、どこかに激突して大破してしまいそうです。



 そこで、「時々力を抜いてみたら」といったニュアンスの言葉をかけてみました。すると、彼女はものの見事に私の意図を見抜き、「お気づかいありがとうございます。それでは、少しペースを落とさせていただきます」と応答してきました。どうやら彼女は、走り続けてはいるものの、自分でもコントロールのできない状況に疲弊していたようです。いえ、あるいは、私がコーチングをしているつもりで、彼女を煽っていたのかもしれません。決して、「こうしろ」「ああしろ」と指示したわけではありませんが、ノンバーバルなコミュニケーションを通じて、私が無意識に発したメッセージは、予想以上に強力だったようです。とにかくAさんは、私の「力を抜いたら」という一言にホッとしていました。



 職場のリーダーとして、自分の期待に応えてくれるスタッフの存在はとても嬉しく、有難いものです。だからこそ、陥ってはいけない落とし穴もあることを、知らされました。



タイトルの「コーチングの副作用」は、服薬管理と同じように「用い方を誤ると思わぬ副作用を引き起こす」という今回の経験を踏まえて、つけたものです。まだまだ使い方のさじ加減も知らない初心者だ、と反省しました。「無害」と思っていたコーチングの、思わぬ一面を知ったような気がしています。

2011年11月27日日曜日

コーチングの年次大会とお見舞い


 昨夜私は、ご主人が東大病院に入院している友人に会いに行きました。東大まで来なければならないような重篤な疾患を抱え、ご夫婦で地方から上京しています。入院から半年たった最近になって何とか小康状態を得ることができ、「退院の許可が出そうだ」というので、帰郷の前にもう一度会おうと訪ねて行きました。安田講堂の周辺にはライトアップがされている見事なイチョウ並木があり、その下を友人と話しながら歩きました。



 友人に会う直前まで私は、日本コーチ協会の年次大会に参加しています。スポーツやビジネスや、医療の中でも「アンチエイジング」がテーマだった今回の講演は、全てがテンポも歯切れもよく語られていて、久しぶりに元気が出たような気持ちになったのでした。シンプルで分かりやすく、その分ストレートに伝わってくるコーチングの魅力を再認識しました。脳科学と関連付けたコーチングの効果についても言及されており、今後はますます研究が進んでいくだろう、という期待が膨らみました。その後で、友人のもとに向かったのです。



 友人のご主人の闘病は年余にわたり、様々な医療機関にかかっています。毎日が死と向き合う生活をしていました。私はそのご主人を支え続けている友人が、気にかかっていました。夫の闘病だけではなく、家業のことでも山のような責任を負っています。しかも誰にも愚痴をこぼさない人で、この友人にとっては私が唯一の話し相手のようでした。ご主人もそのことを知っているようで、それとはなしに私に妻(友人)を託しているようなところが、伺われていました。



いつも私は友人として話を聞きますので、フランクな雑談も入りますし、話題も多岐に渡ります。ですから昨夜も、講演で聞いてきたコーチングの一般原則「私的な会話はしない」とは大きく外れて、「私的な話ばかり」でした。コーチングフローも、その時の私の頭にはありません。何時間も友人は、時に目を赤く潤ませながらも感情に流されることなく、話し続けました。



 この自分の行為が「コーチング」と呼べるのかどうかは分かりませんが、コーチングスキルを使っている、とは意識していました。それが「ケアする人(友人)をケアする」行為であってくれればいい、と思っています。





年次大会では、伊藤守氏がコーチングについて「様々な定義があるが」という前置きと共に、「人材(人財?)開発の手法」と説明していました。ビジネスコーチングにおけるシンプルで分かりやすい定義です。私は、コーチの語源「大切な人(クライアント)を馬車(コーチ)に乗せて目的地まで送り届ける」が、自分にフィットするイメージだと思っています。





別れ際の友人の目には、これからの覚悟と決意が見て取れました。彼女には元々そのような強さが備わっていたのですが、この数時間の中でいくらかはサポートができたのかもしれません。同じ日の年次大会とお見舞い、私にとってはコーチングについて改めて振り返ることとなった貴重な経験でした。

2011年11月12日土曜日

「承認としての質問」について


 コーチングでは、「傾聴」「共感」「質問」「承認」が主要なスキルとして紹介されています。「傾聴」「共感」「承認」が、あるコミュニケーションの中で、重層的に機能していることが多い(と言うより、分解が難しい)のに対し、「質問」は、他のスキルと連続的に使うことはあっても重なりあうことはないだろう、というのが私のこれまでの印象でした。

 ところが、あるクライアントとの会話を通して「承認としての質問も、あるのかもしれない」と思えるようになり、個人的には大いに触発されています。



 今回は、その経験のご紹介です(内容は、文脈を損ねない程度に加工してありますので、ご了承ください)。



 みな子さん(50代、女性)は、肺がんが身体中に転移しています。今回は化学療法を受けるために入院しました。痛みが強いため、リハビリテーションで慎重な配慮をした上での運動を実施しますが、「良くならない」「痛みが強くなった」と苦痛をいつも訴えるような状態でした。時には、こちらの反応を試すように「この病気は、治るんですか?」と質問をすることもあります。身体を起していることが辛いので、ほとんどベッドに横になっており、食事もあまり摂れていません。みな子さんが自発的に行動を起こすのは、トイレに行く時と、車いすに乗って病院の敷地外に行き、喫煙をする時だけです。



病状からすれば、喫煙のような反治療的な行為は止められるはずでしたが、生命予後を考えると制止することにはそれほどの意味がない、と判断しているのか、病棟ナースは黙認状態でした。病状の深刻さについては私も知っていましたので、逆に何故あれだけの状態を押してまで、喫煙に向かうのか、が不思議でした。これは、愛煙家でなければ理解の難しいところなのかもしれません。とにかくみな子さんは、煙草が病状に障ることを知った上で、何をおいても喫煙に出かけて行きました。ただ、「自分のしたいことをしている」にしては、車いすを自走してエレベーターに向かうみな子さんの背中は孤独でした。



そのような中で、みな子さんと私との会話は言葉が少なく、苦痛をめぐってのやり取りが続いていました。何度も、喫煙に出かけて行く車いすのみな子さんを見かけ、「こんな寒い日にも、煙草を吸いに行っているのですか?」と声をかけましたが、彼女はかすかに頷くだけでした。



 体力は日ごとに低下していましたが、ある日、みな子さんの体調が比較的良さそうだったので、私は改めて「今、どのように身の回りのことをしているのか」についての聞き取りを行いました。この時の二者関係は「まだ十分な信頼関係が築けていない」という印象です。聞き取りの中に私は、「利き手には、少し麻痺がありますね。麻痺のある手で、どんな風に煙草を持っていますか?」という質問を入れました。それを聞いた時の、少し驚き、初めてホッとしたようなみな子さんの反応は、私の予想をはるかに超えたもので、それから身振りを交えて煙草の持ち方を説明してくれました。説明が終わった時、みな子さんと私の関係性が少し進展したような気がしました。



 それまでの私は作業療法士(医療従事者)として、クライアントの病状を更に悪化させる行為(喫煙)を認めるわけにはいかない、と思ってきました。ですから、「こんな寒い日にも、煙草を吸いに行っているのですか?」という何気ない言葉かけには、無意識のうちにどこか批判的なニュアンスが含まれていたのだと思います。けれども、孤独な車いすの背中を見ているうちに、喫煙をすることでしか今の自分を癒すことのできないみな子さんの気持ちを、少しずつ受け入れられるような気がしてきました。この段階で伝えた「麻痺のある手で、どんな風に煙草を持っていますか?」には、質問というオブラートに包んだ私の控えめな承認のメッセージを込めたつもりです。



 コーチングでは、質問はクライアントの中にある答えを引き出すために行う、とされています。みな子さんは、質問に包まれた私からの「承認」メッセージにとてもよく応えてくれました。その反応によって私は、みな子さんが何を必要としていたのか、を知ることになります。それは質問本来の目的にも適っているような気がしました。



みな子さんは私に、「ポジティブにせよ、ネガティブにせよ、質問者の意図は、透明ガラスのように相手に伝わる」ことを教えてくれました。何故なら、メンタリティが低下しているクライアントほど、ノンバーバルレベルの情報を察知しやすいからです(そう考えると、バーバルレベルの「質問例文集」があまり役に立たないのも理解できるような気がします)。

 

 どんなスキルもそうですが、「承認」をする場合にも、クライアントに受け入れられるための分かりやすい表現の方が良い、と思っています。その上で、今回のように正面を切って承認をすることがためらわれる場合や、シャイなクライアントに対しては、「承認を質問の形に込める」という方法も、コーチングスキルのヴァリエーションに該当するのかもしれない、と今はそんな風に考えています。コーチングスキルの重ね合わせ・掛け合わせ、という発想が個人的にとても気に入りました。何も新規なことを指しているのではなく、「私たちはすでに臨床の中でこれらのことを、例えば『共感的質問』もしているのでは?」などと妄想がたくましくなってきましたので、今日はこの辺で。



 みな子さんは、あれ以来、多少のコンディションの悪さを押してでもリハビリテーション室に来るようになり、いくらか冗談が通じるようになりました。

2011年11月6日日曜日

人生時計でゴールをイメージする






 
 リハビリテーションのプロセスの中で、クライアントのゴール設定は当然なされるべきこととして認識されていますし、医療に限らず、どの世界でも目標管理に基づく各自のゴール設定は必然とされています。





 ところが職場や立場を離れ、私人として自分の人生のゴールを立てる、という習慣は、それほど一般的なことではないのかもしれません。

 

 

 SNSや職場で「人生時計」の話題を提供したことがありますが、思いのほか反響がありました。自分のライフステージを、時計に置き換えてイメージしてみる。自分の長期ゴールを時間軸の中で客観的に捉えてみる、そんな経験が新鮮だったようです。

今回は、人生時計への反響を手がかりに、ゴール設定とコーチングについて考えてみることにします。



最初に「人生時計」とは。



 自分の一生を時計に置き換えて、「今の自分は、人生時計の何時にいるか」、を考えてみます。

生まれた時が0時。人生の終わりが24時。

これまでは、人生時計を感覚的にとらえていたのですが、実は計算式があることが分かりました。最初、SNSや職場では、
(年齢)÷3=人生時計の時間(この式によれば、72歳で24時になります)をご紹介したのですが、少し実情に合いませんので、ここで改めて現在の平均寿命を参考に式を修正します。

         

(年齢)÷3.5=人生時間(これですと、84歳で24時になります)。


 twitterで知った計算式年齢)÷3=人生時間を、「これは使える」と思ってそのまま御紹介した後で、72歳で24時になってしまうことに気付き、「これでは、ゴールが早すぎる」と慌てたのですが、72歳にまだまだ時間的距離のある人たちにとっては、この設定はあまり気にならなかったようです。とにかく、そのまま受け止めてくれて、時計の針が午前中の人、正午付近の人、おやつの時間の人、もうすぐ午後5時に差し掛かろうとしている人、などそれぞれの人が、今の自分を人生時計の上に置いて、ゴールまでの道のりをイメージしている様子が、書き込みからよく伝わってきました。中には、「今の僕は、分」とまで計算してくれた人もいました(これには、驚きましたけれど)。



 この人生時計のメリットは、とても分かりやすいこと。例えば、「私はまだ午前中なので、時間はたっぷりあります」。「私は今、人生時計の午後三時。終業時間まであと2時間だから、ここでおやつを食べて一息ついたら、このままのペースでもうひと頑張りします」。「私は今、午後4時。かなり疲れたけど、あともう少し。ゴールは近い。もう少し走りますよ」など。今午後に居る人の多くが、「午後5時」を目指して課題やペースを考えていることが分かりました。



先程も書きましたようにこの計算式、実は午後5時の時点では、まだ51歳ということになります。「あと一息」と頑張っている人には、糠よろこびをさせてしまったのではないか、と反省しています。ここで、私が修正した式で再計算をしてみますと、



(年齢)÷3.5=人生時間 59.5歳で17時になる予定ですので、御参考までに。(今後、現役期間の延長に伴って、この計算式には更に修正が加わることも予想されますので、予めご了承ください)。



いずれにしても人生時計は、自分が今ライフステージのどのあたりに居るのか、を知り、具体的に未来をイメージするための指標を与えてくれます。まだ試していない方は、この機会にどうぞ。


 まだ午前中にいる人は午後2時位をピークと捉えているようですね。コーチングを行う時に、クライアントが現在どこにいるか、によってゴール地点が違うのは、当たり前のことのようですが、こうして時計上にイメージしてみると、受け取るこちらの納得感に深みが増すような気がします。



ゴールは現在から未来に向かって設定することが定石ですが、

人生の夕暮れ時以降のゴール設定をどうとらえるか。
人生時間のどこまでをコーチングで扱えるのか、という視点から未来を考える時、経験の豊富なクライアントが「過去に味わった自己効力感」は大きなリソースになりますので、もっと意識的に活用してもいいのではないか、と考えています。

次にについての私の考えをまとめてみますと、

 ①17時以降の目標設定について。この時刻には、肩の荷が軽くなった気楽さに、これまで培ってきたものを手放す喪失感が伴います。「荷降ろしうつ病」と言われる症状が出ることもあるくらいですから、ここで未来に目を向けて新たな課題や目標を設定することは、一人では難しいことが多い。予防策として、リタイアの前から目標を設定してプログラムを立てておくことが健康保険組合からも推奨され、そのための講座も開かれているようです。ここに、個別対応のコーチングが普及すれば、団塊の世代のパワーをもっと活かすことができるのではないか、と思うのですが、これは誰でも考えそうなことですし、もうすでに実現していることかもしれません。

人生時計のどこまでをコーチングで扱えるのか。最初に、私が抱いたコーチングに対するイメージは、「結果を出すためにクライアントが最高の能力を発揮できるだろう、という時期に照準を定めて現時点からマイルストーンを置いていく」というものでした。一方、私が描くメディカルコーチングの理想は、限りなく人生時計の24時(ラストステージ)に近い所まで機能する、というものです。とはいえ、これは言葉でいうほどたやすいものではなく、いつも「どこまでがコーチングなのだろう」と自分に問いかけています。例えば、ベッドサイドで声をかけても目を開けず、身動きもしないクライアント(患者さん)に向き合う時などに。無謀なことかもしれませんが、これを私は「答えは出ないけれど、自分にとって必要な問いかけ」と位置付けています。


 

 自分の過去と現在と未来を、実物の時計を眺めながらイメージしています。過ぎて来た時間が長くなるにつれて、人は未来に希望を持つことが困難になり過去に惹かれるようになるそうです。足踏みをせずに少しずつでも前に進みたい、そんな気持ちになりました。では、この辺で。