2011年8月20日土曜日

せん妄とペーシング


・病室の外にまで響くSさんの声。訪室して声をかけると、Sさんは我に帰ったように視線を私に向けて話し始めた。「○○(息子の名)は、どこに行ったんだ?」(さっき、エレベーターの中でお会いしましたよ)。「どこへ、行ったんだ?」(お買い物に行ったみたいです)。「何を買いに行ったんだ?」(何を買いに行ったんでしょうね)。「しょうがないなぁ、全く」。



・毎分5リットルも流れている酸素マスクが顎の下に落ちていた。自分で外したらしい。酸素飽和度が83%に低下している。ナースがモニターを見てやってきた。(マスクをつけましょうね)。「いらないよ」。(そう言わずに、今だけでも・・・・)そう言いながら、酸素マスクをセットし直す。少しずつ数値が上がってきた。酸素飽和度96%。マスクの下で、文脈のつながらない話が続く。できるだけ聴いていることが伝わるように、相槌を打つ。



・(もうすぐ、お食事ですよ)。「いらないよ」。何カ月も全量摂取だったのに、ここ数日は2~3口で、食事を終えているようだ。家族はその数口の食事を介助するために、毎日来院している。



・(今日の調子はどうでしょう?いつものマッサージをしてもよろしいですか?)「あぁ、お願いします」。四肢の浮腫は、日替わりで増悪と軽減を繰り返している。ソフトタッチのマッサージは、リンパを流すためのもの、というよりは「どうしたら死ねるか、とそればかりを考えていて」気持ちが落ち着かないSさんに、静かな寝息を立ててもらうためのものだった。ほどなくSさんは、かすかな寝息を立てはじめた。



・「お世話になります」と言いながら、息子さんが病室に入ってきた。(息子さんが来ましたよ)。Sさんは目を開け「どこに行っていたんだ」と、話しかける。息子さんは、Sさんに残された時間が「日」単位であることを感じているようだった。静かな会話が流れる。Sさんの声のトーンは、ずい分落ち着いた。



・こんな時、病室で一人にされることの不安や寂しさは、私たちの想像の域をはるかに超えているのだろう。それまで培われた関係性を基盤にして、その場にいることが必要とされる場面である。実際に必要とされているかどうかの判断は難しいところだが、私の場合、自分が病室を後にする時に判断している。クライアントやご家族が、私の次の訪室を期待して「ありがとうございました」と、言ってくれるかどうか、である。


2011年8月14日日曜日

効果的なフィードバックについて('11,8,17)


実習生に指導者が行うフィードバック。あるアンケート調査によると、時間帯は終業後が多く、毎日45分から長い場合は4時間(!)にも及ぶものもある、という。また、フィードバックの方法は、学生が書いてきたレポートを元に、紙面には赤ペン先生宜しく真っ赤な添削が詳細にされていて、多くは不足不備を指摘する内容で、はては「て」「に」「を」「は」の訂正にまで及ぶのだという。「のだという」と書いたのは、今の自分ならそうはしない、という前提でのことだが、実はこれまで「そんなことをしてこなかった」わけではない。いつの間にか学生に対する肩の力が抜けて、「自分もできの悪い学生だった」ことを思いだしてから、いくらか変わってきただけだ。一番肩に力が入っているのが、4年目~6年目あたりだというのが通説になっているが、確かにそうだと思う。



 学生に尋ねると、A4のレポート2枚を書くのに、3時間かかるという。「どうしてそんなに」と驚くが、そんな状態でうっかり指導者に質問をしようものなら「あなたはどう思う?」と切り返され、「じゃあ、レポートにまとめて来て」と課題の上乗せがされる。積極的質問が、睡眠時間の短縮に直結するという、恐ろしい結果が予測されるので、これでは質問もできない。ちなみに睡眠時間は多くて5時間。実習が佳境に入ると、1時間とか2時間とか。これでは、体調を崩さないわけがない。



 以上は、学生の立場に立ったお話。次は、指導者の立場から。



学生の定員が急増したため、定員割れを防ぐために無審査に近い状態で入学させている、という事態を憂慮しているのは、誰しも同じ。当然、「自分達の仲間になるなら、せめてこれくらいのレベルには達して欲しい」と思う。加えて、指導者と学生の年齢が近ければ、ある意味で「自分に追いつき追い越すかもしれない存在」としてのライバル意識もどこかで働く。結果的に、「睡眠時間1時間」の状態に学生を追い込むことになるのだが、実はこのあたりの試行錯誤には、相当エネルギーを使っている。しかも、指導者に何のメリットがあるのか。いくら、今後の協会の発展のため、と言われても・・・・・。



 この両者のストレスを軽減させる方法はないだろうか。



 今、私が提案できる方法は、「コーチングスキルの活用」だが、特に学生の話を聞くことは、効果的だ。見ていると、指導時間に話しているのは、ほとんど指導者(95%)で一生懸命ティーチングをしている。学生は、黙って「はい」「はい」と言ってはいるが、どれくらいインプットされているのか、その時の表情を見ると「?」である。指導者にしても、疲れた体に鞭打って、折角これだけ指導しているのに、さっぱり効果が現れない。(いやになりますよね)。



試しに、こちらから質問をして70%~80%くらい学生に話させてみる(傾聴、です)。へぇ~、意外と考えているじゃない、ちょっと見なおした(もちろん、口には出しません。内心で承認しているのです)。で、これは?(質問のスキル)すると学生は、「あっ、それは・・・・」。そこで指導者が提案とティーチング。結構インプットが良い。聴いてもらえた後だから。素直に「それは、帰って調べてきます」となる(うまくいけば)。これで、負のスパイラルから抜け出せると、結構局面が変わることもある。



「変わることもある」と控えめに言うのは、100%成功します、の方法ではないので。もちろん、学生の資質は、欠かせない前提条件ですから。学ぶ意欲があるのに、教えたい気持ちがあるのに、どうしてもお互いのボタンが合わない、そんな時にお試しください。私は、結構効果的だ、と思っています。


2011年8月11日木曜日

晩夏のCaféにて(’10,9月)


見覚えのあるCaféに辿り着いた。数年前、友人に案内されて訪れた場所だ。ゆったりとした居心地のよい空間だったことを覚えている。短い帰省中にぽっかりと空いた時間を、そんな所で過ごしたかった。

 Caféのある一画は旭川の森林公園に隣接し、しゃれた建物が立ち並ぶ陶芸の里として知られている。昔から地名だけは知っていたが、初めて案内された時は、「まるで伊豆の別荘地のようだ」と驚いたものだ。



 車のドアを閉めて入口を見ると、マスターが出迎えてくれていた。いや、出迎えというよりは、驚いたというか、少し当惑したような表情に見える。(今日は貸し切りだろうか。それとも、もう閉店の時間なのか)。マスターに、「開いていますか?」と聞いた。彼は、開いてはいますが、と言いながら私を中に案内してくれた。平屋の一軒屋は、いくつかのコーナー毎に雰囲気を変えて客席をしつらえてある。2組位の先客がいた。どこに座ろうか・・・・、広すぎて判断に迷う。「どこに座ったら?」と問いかけると、「どうぞ、どうぞ、お好きなところに」マスターはスリッパを用意しながら、私の好きにしていい、と言ってくれた。靴のままでもいいですよ。私は、スリッパに履き替えて、個室のようなスペースのソファに腰掛けた。



Cafeの中にいると、森にすっぽりと包まれているような安心感を覚える。大きな花瓶には野草が活けられ、様々な置物がCaféの雰囲気を作り出し、何より開放された窓から見える全ての景色が素晴らしかった。手入れの行き届いた店内は、以前と変わりない。ただ、夏休みが終わったせいなのか、店内は閑散としていた。その時は、ほぼ貸し切りのような状態を幸運だ、と思った。










やがてオーダーを聞きに来たマスターは、少しくたびれたメニューを差し出しながら「これしかなくて、お恥ずかしいのですが」と言った。「飲み物以外に用意できるのは、シフォンケーキだけです」。客にそこまで恥じることもないのに、と思う一方で何か伝わってくるものがあった。コーヒーとシフォンケーキの注文を聞くとマスターは、「ゆっくりしていって下さい」と言いながらカウンターに戻って行った。壁の向こうでコーヒー豆をひいているミルの音がする。一杯のコーヒーは丁寧に入れられるのだろう。全ての所作が、そのまま目の前に浮かんでくるようだった。ソファには、膝かけまで用意されている。このままここで、うたた寝をすることが許されるような柔らかな空間だ。やがて運ばれてきたコーヒーには、しっとりとしたシフォンケーキと温められたコーヒーミルクが添えてあった。失礼ながら閑散とした店なので、シフォンケーキが少し乾いていることも想定していた。それだけに、ミルクの温かさとシンプルなケーキの柔らかさが際立った。ソファにもたれ窓の外を眺めながらゆっくりとコーヒーを味わう、そんな贅沢なひと時を過ごした。

 

 後から訪れた常連の客とマスターの会話が、とぎれとぎれに聞こえてくる。10月一杯でこの店をたたむらしい。それは雪国によくある「冬季休眠」ではなく、春が来ても開店の予定がない「閉店」のようだった。マスターがポットに新しいコーヒーを入れ、店内の客に振舞いながら「ゆっくりしていって」と声をかける。一見の客である私にも、チョコレートとコーヒーのお代わりがサービスされた。「10月で閉店ですか。残念ですね」。言ってしまってから、少し後悔した。今さら何の慰めにもならない。マスターは、かすかに頷きながら「ゆっくりしていって下さい」と言った。



店を出る時マスターから「9年、やりました」と聞いた。私がここを初めて訪れたのは、5年ほど前だったろうか。あの頃の賑わいはこの店にもそしてこの一画にも、もうないのかもしれない。「これから、どうされるんですか?」思わず尋ねた。が、「さぁ、酒でも飲んで寝ているかもしれません」。あぁ、まだ予定が立っていないのだ・・・・。「でも、ここにいますから。また、遊びに来てください」。マスターの言葉に少し救われるような思いで、私はCafeを後にした。



帰省中のCaféでのひと時。閉店することを知らなければ、あのケーキやコーヒーの味は、もっと違っていたのかもしれない。あたりの景色に溶け込んだ店内は、マスターの精一杯のホスピタリティと寂寥感で彩られていた。静かで深い時間だった。

 




2011年8月7日日曜日

本日は、「アンコーチャブル」について

 
これは、ビジネスコーチングの書籍によく出てくるもので、クライエントとして不適格な対象を列挙しています。たとえば、


話を聞けない人

常に否定的に考える人

思考や感情をコントロールできない人

過度に依存性が高い人

攻撃的な人、など。


 みなさん、「へえー」「でも、ちょっと待って」と思いませんか?そうですね。医療の現場でお会いする人の多くは、アンコーチャブルな状態の人。または、そのような状態になる可能性の高い人。一時的には、アンコーチャブルにならざるを得ない人。これらの人はコーチングの対象外?


 「アンコーチャブルな人」と「アンコーチャブルな状態にある人」との間には、大きな違いがあります。私たちが、クライエントの言動をどのように理解するか、というマインドの部分に関わってきますので、あえて書かせていただきました。


 「アンコーチャブルな人」と決めつけてしまうと、コーチから見たその人は、コーチングを受ける適性がないことになってしまいます。でも逆に私は、「24時間、365日、コーチャブルな人」っているのかしら、と疑問を持っています。まさか、寝ている時までコーチャブルな人はいないでしょうし・・・・・・。まして、病に苦しんでいるときに、自分の感情を見事にコントロールできる人は、そんなにいないでしょう。


 その時、その状況で、その人がコーチャブルな状態であるかどうか、を判断できることがコーチに求められるスキル、と考えています。「アンコーチャブルな人」とレッテルを貼るのではなく。


 伝わったかしら?


2011年8月6日土曜日

「碧い池」のこと


この夏の帰省中、偶然見つけた(とはいっても、すでに観光バスが乗り付けているほどのスポット)素敵な場所です。思い出深いので、このブログのタイトルにしました。美瑛の「青い池」です。私はあえて、「碧い池」にしましたが。

コーチングとは?



ここからは私が学んでいるコーチングについて、いくつかの参考書籍を元に、お話を進めていきます。息切れしないように、飽きないように、肩の力を抜いて、楽しく、をモットーに。





そもそも「コーチングとは?」 



ティーチングに変わる新しい手法として、スポーツやビジネス、教育の世界で大きな成果を上げ最近注目されているのが、コーチングです。テニスコーチのティモシー・ガルウェイは自身の著書の中で「コーチングとは、ある人が最大限の成績を上げる潜在能力を開放することである。それは人に教えるのではなく、その人が自ら学ぶのを助けることだ」と述べています。すなわち、コーチングとは「相手の自発的な行動を促進するためのコミュニケーション」のことです。(メディカル・コーチング Q&A より)





さて本日のお題は、

「難病患者を支えるコーチング・サポートの実際」(安藤潔)から。



タイトルの難病は、廃用症候群と読み変えることも可能です。

そもそも、難病のマネージメントがどうして困難か、というと

原因不明

治療法も確立されていない

長い慢性の経過を多くの不安と問題を抱えながらADLを続けなければならないから、です。



このような難病患者に関わるスタッフには、急性期医療とは違った様々な能力が要求されます。と同時に、治療法のない難病に関わり続けていくことで、スタッフはストレスを抱えることにもなります。

 

スポーツ選手の傍にいて、選手に伴走するコーチを思い浮かべてみましょう。このようなコーチのスタンスは、行く手の不明確な難病や、慢性疾患患者をサポートするためにも、医療従事者に求められるものです。



医療従事者が燃え尽きずに、現場で最高のパフォーマンスを発揮するための有用な方策の一つとして、「コーチング」を考えてみましょう。