2011年11月27日日曜日

コーチングの年次大会とお見舞い


 昨夜私は、ご主人が東大病院に入院している友人に会いに行きました。東大まで来なければならないような重篤な疾患を抱え、ご夫婦で地方から上京しています。入院から半年たった最近になって何とか小康状態を得ることができ、「退院の許可が出そうだ」というので、帰郷の前にもう一度会おうと訪ねて行きました。安田講堂の周辺にはライトアップがされている見事なイチョウ並木があり、その下を友人と話しながら歩きました。



 友人に会う直前まで私は、日本コーチ協会の年次大会に参加しています。スポーツやビジネスや、医療の中でも「アンチエイジング」がテーマだった今回の講演は、全てがテンポも歯切れもよく語られていて、久しぶりに元気が出たような気持ちになったのでした。シンプルで分かりやすく、その分ストレートに伝わってくるコーチングの魅力を再認識しました。脳科学と関連付けたコーチングの効果についても言及されており、今後はますます研究が進んでいくだろう、という期待が膨らみました。その後で、友人のもとに向かったのです。



 友人のご主人の闘病は年余にわたり、様々な医療機関にかかっています。毎日が死と向き合う生活をしていました。私はそのご主人を支え続けている友人が、気にかかっていました。夫の闘病だけではなく、家業のことでも山のような責任を負っています。しかも誰にも愚痴をこぼさない人で、この友人にとっては私が唯一の話し相手のようでした。ご主人もそのことを知っているようで、それとはなしに私に妻(友人)を託しているようなところが、伺われていました。



いつも私は友人として話を聞きますので、フランクな雑談も入りますし、話題も多岐に渡ります。ですから昨夜も、講演で聞いてきたコーチングの一般原則「私的な会話はしない」とは大きく外れて、「私的な話ばかり」でした。コーチングフローも、その時の私の頭にはありません。何時間も友人は、時に目を赤く潤ませながらも感情に流されることなく、話し続けました。



 この自分の行為が「コーチング」と呼べるのかどうかは分かりませんが、コーチングスキルを使っている、とは意識していました。それが「ケアする人(友人)をケアする」行為であってくれればいい、と思っています。





年次大会では、伊藤守氏がコーチングについて「様々な定義があるが」という前置きと共に、「人材(人財?)開発の手法」と説明していました。ビジネスコーチングにおけるシンプルで分かりやすい定義です。私は、コーチの語源「大切な人(クライアント)を馬車(コーチ)に乗せて目的地まで送り届ける」が、自分にフィットするイメージだと思っています。





別れ際の友人の目には、これからの覚悟と決意が見て取れました。彼女には元々そのような強さが備わっていたのですが、この数時間の中でいくらかはサポートができたのかもしれません。同じ日の年次大会とお見舞い、私にとってはコーチングについて改めて振り返ることとなった貴重な経験でした。

2011年11月12日土曜日

「承認としての質問」について


 コーチングでは、「傾聴」「共感」「質問」「承認」が主要なスキルとして紹介されています。「傾聴」「共感」「承認」が、あるコミュニケーションの中で、重層的に機能していることが多い(と言うより、分解が難しい)のに対し、「質問」は、他のスキルと連続的に使うことはあっても重なりあうことはないだろう、というのが私のこれまでの印象でした。

 ところが、あるクライアントとの会話を通して「承認としての質問も、あるのかもしれない」と思えるようになり、個人的には大いに触発されています。



 今回は、その経験のご紹介です(内容は、文脈を損ねない程度に加工してありますので、ご了承ください)。



 みな子さん(50代、女性)は、肺がんが身体中に転移しています。今回は化学療法を受けるために入院しました。痛みが強いため、リハビリテーションで慎重な配慮をした上での運動を実施しますが、「良くならない」「痛みが強くなった」と苦痛をいつも訴えるような状態でした。時には、こちらの反応を試すように「この病気は、治るんですか?」と質問をすることもあります。身体を起していることが辛いので、ほとんどベッドに横になっており、食事もあまり摂れていません。みな子さんが自発的に行動を起こすのは、トイレに行く時と、車いすに乗って病院の敷地外に行き、喫煙をする時だけです。



病状からすれば、喫煙のような反治療的な行為は止められるはずでしたが、生命予後を考えると制止することにはそれほどの意味がない、と判断しているのか、病棟ナースは黙認状態でした。病状の深刻さについては私も知っていましたので、逆に何故あれだけの状態を押してまで、喫煙に向かうのか、が不思議でした。これは、愛煙家でなければ理解の難しいところなのかもしれません。とにかくみな子さんは、煙草が病状に障ることを知った上で、何をおいても喫煙に出かけて行きました。ただ、「自分のしたいことをしている」にしては、車いすを自走してエレベーターに向かうみな子さんの背中は孤独でした。



そのような中で、みな子さんと私との会話は言葉が少なく、苦痛をめぐってのやり取りが続いていました。何度も、喫煙に出かけて行く車いすのみな子さんを見かけ、「こんな寒い日にも、煙草を吸いに行っているのですか?」と声をかけましたが、彼女はかすかに頷くだけでした。



 体力は日ごとに低下していましたが、ある日、みな子さんの体調が比較的良さそうだったので、私は改めて「今、どのように身の回りのことをしているのか」についての聞き取りを行いました。この時の二者関係は「まだ十分な信頼関係が築けていない」という印象です。聞き取りの中に私は、「利き手には、少し麻痺がありますね。麻痺のある手で、どんな風に煙草を持っていますか?」という質問を入れました。それを聞いた時の、少し驚き、初めてホッとしたようなみな子さんの反応は、私の予想をはるかに超えたもので、それから身振りを交えて煙草の持ち方を説明してくれました。説明が終わった時、みな子さんと私の関係性が少し進展したような気がしました。



 それまでの私は作業療法士(医療従事者)として、クライアントの病状を更に悪化させる行為(喫煙)を認めるわけにはいかない、と思ってきました。ですから、「こんな寒い日にも、煙草を吸いに行っているのですか?」という何気ない言葉かけには、無意識のうちにどこか批判的なニュアンスが含まれていたのだと思います。けれども、孤独な車いすの背中を見ているうちに、喫煙をすることでしか今の自分を癒すことのできないみな子さんの気持ちを、少しずつ受け入れられるような気がしてきました。この段階で伝えた「麻痺のある手で、どんな風に煙草を持っていますか?」には、質問というオブラートに包んだ私の控えめな承認のメッセージを込めたつもりです。



 コーチングでは、質問はクライアントの中にある答えを引き出すために行う、とされています。みな子さんは、質問に包まれた私からの「承認」メッセージにとてもよく応えてくれました。その反応によって私は、みな子さんが何を必要としていたのか、を知ることになります。それは質問本来の目的にも適っているような気がしました。



みな子さんは私に、「ポジティブにせよ、ネガティブにせよ、質問者の意図は、透明ガラスのように相手に伝わる」ことを教えてくれました。何故なら、メンタリティが低下しているクライアントほど、ノンバーバルレベルの情報を察知しやすいからです(そう考えると、バーバルレベルの「質問例文集」があまり役に立たないのも理解できるような気がします)。

 

 どんなスキルもそうですが、「承認」をする場合にも、クライアントに受け入れられるための分かりやすい表現の方が良い、と思っています。その上で、今回のように正面を切って承認をすることがためらわれる場合や、シャイなクライアントに対しては、「承認を質問の形に込める」という方法も、コーチングスキルのヴァリエーションに該当するのかもしれない、と今はそんな風に考えています。コーチングスキルの重ね合わせ・掛け合わせ、という発想が個人的にとても気に入りました。何も新規なことを指しているのではなく、「私たちはすでに臨床の中でこれらのことを、例えば『共感的質問』もしているのでは?」などと妄想がたくましくなってきましたので、今日はこの辺で。



 みな子さんは、あれ以来、多少のコンディションの悪さを押してでもリハビリテーション室に来るようになり、いくらか冗談が通じるようになりました。

2011年11月6日日曜日

人生時計でゴールをイメージする






 
 リハビリテーションのプロセスの中で、クライアントのゴール設定は当然なされるべきこととして認識されていますし、医療に限らず、どの世界でも目標管理に基づく各自のゴール設定は必然とされています。





 ところが職場や立場を離れ、私人として自分の人生のゴールを立てる、という習慣は、それほど一般的なことではないのかもしれません。

 

 

 SNSや職場で「人生時計」の話題を提供したことがありますが、思いのほか反響がありました。自分のライフステージを、時計に置き換えてイメージしてみる。自分の長期ゴールを時間軸の中で客観的に捉えてみる、そんな経験が新鮮だったようです。

今回は、人生時計への反響を手がかりに、ゴール設定とコーチングについて考えてみることにします。



最初に「人生時計」とは。



 自分の一生を時計に置き換えて、「今の自分は、人生時計の何時にいるか」、を考えてみます。

生まれた時が0時。人生の終わりが24時。

これまでは、人生時計を感覚的にとらえていたのですが、実は計算式があることが分かりました。最初、SNSや職場では、
(年齢)÷3=人生時計の時間(この式によれば、72歳で24時になります)をご紹介したのですが、少し実情に合いませんので、ここで改めて現在の平均寿命を参考に式を修正します。

         

(年齢)÷3.5=人生時間(これですと、84歳で24時になります)。


 twitterで知った計算式年齢)÷3=人生時間を、「これは使える」と思ってそのまま御紹介した後で、72歳で24時になってしまうことに気付き、「これでは、ゴールが早すぎる」と慌てたのですが、72歳にまだまだ時間的距離のある人たちにとっては、この設定はあまり気にならなかったようです。とにかく、そのまま受け止めてくれて、時計の針が午前中の人、正午付近の人、おやつの時間の人、もうすぐ午後5時に差し掛かろうとしている人、などそれぞれの人が、今の自分を人生時計の上に置いて、ゴールまでの道のりをイメージしている様子が、書き込みからよく伝わってきました。中には、「今の僕は、分」とまで計算してくれた人もいました(これには、驚きましたけれど)。



 この人生時計のメリットは、とても分かりやすいこと。例えば、「私はまだ午前中なので、時間はたっぷりあります」。「私は今、人生時計の午後三時。終業時間まであと2時間だから、ここでおやつを食べて一息ついたら、このままのペースでもうひと頑張りします」。「私は今、午後4時。かなり疲れたけど、あともう少し。ゴールは近い。もう少し走りますよ」など。今午後に居る人の多くが、「午後5時」を目指して課題やペースを考えていることが分かりました。



先程も書きましたようにこの計算式、実は午後5時の時点では、まだ51歳ということになります。「あと一息」と頑張っている人には、糠よろこびをさせてしまったのではないか、と反省しています。ここで、私が修正した式で再計算をしてみますと、



(年齢)÷3.5=人生時間 59.5歳で17時になる予定ですので、御参考までに。(今後、現役期間の延長に伴って、この計算式には更に修正が加わることも予想されますので、予めご了承ください)。



いずれにしても人生時計は、自分が今ライフステージのどのあたりに居るのか、を知り、具体的に未来をイメージするための指標を与えてくれます。まだ試していない方は、この機会にどうぞ。


 まだ午前中にいる人は午後2時位をピークと捉えているようですね。コーチングを行う時に、クライアントが現在どこにいるか、によってゴール地点が違うのは、当たり前のことのようですが、こうして時計上にイメージしてみると、受け取るこちらの納得感に深みが増すような気がします。



ゴールは現在から未来に向かって設定することが定石ですが、

人生の夕暮れ時以降のゴール設定をどうとらえるか。
人生時間のどこまでをコーチングで扱えるのか、という視点から未来を考える時、経験の豊富なクライアントが「過去に味わった自己効力感」は大きなリソースになりますので、もっと意識的に活用してもいいのではないか、と考えています。

次にについての私の考えをまとめてみますと、

 ①17時以降の目標設定について。この時刻には、肩の荷が軽くなった気楽さに、これまで培ってきたものを手放す喪失感が伴います。「荷降ろしうつ病」と言われる症状が出ることもあるくらいですから、ここで未来に目を向けて新たな課題や目標を設定することは、一人では難しいことが多い。予防策として、リタイアの前から目標を設定してプログラムを立てておくことが健康保険組合からも推奨され、そのための講座も開かれているようです。ここに、個別対応のコーチングが普及すれば、団塊の世代のパワーをもっと活かすことができるのではないか、と思うのですが、これは誰でも考えそうなことですし、もうすでに実現していることかもしれません。

人生時計のどこまでをコーチングで扱えるのか。最初に、私が抱いたコーチングに対するイメージは、「結果を出すためにクライアントが最高の能力を発揮できるだろう、という時期に照準を定めて現時点からマイルストーンを置いていく」というものでした。一方、私が描くメディカルコーチングの理想は、限りなく人生時計の24時(ラストステージ)に近い所まで機能する、というものです。とはいえ、これは言葉でいうほどたやすいものではなく、いつも「どこまでがコーチングなのだろう」と自分に問いかけています。例えば、ベッドサイドで声をかけても目を開けず、身動きもしないクライアント(患者さん)に向き合う時などに。無謀なことかもしれませんが、これを私は「答えは出ないけれど、自分にとって必要な問いかけ」と位置付けています。


 

 自分の過去と現在と未来を、実物の時計を眺めながらイメージしています。過ぎて来た時間が長くなるにつれて、人は未来に希望を持つことが困難になり過去に惹かれるようになるそうです。足踏みをせずに少しずつでも前に進みたい、そんな気持ちになりました。では、この辺で。