昨夜私は、ご主人が東大病院に入院している友人に会いに行きました。東大まで来なければならないような重篤な疾患を抱え、ご夫婦で地方から上京しています。入院から半年たった最近になって何とか小康状態を得ることができ、「退院の許可が出そうだ」というので、帰郷の前にもう一度会おうと訪ねて行きました。安田講堂の周辺にはライトアップがされている見事なイチョウ並木があり、その下を友人と話しながら歩きました。
友人に会う直前まで私は、日本コーチ協会の年次大会に参加しています。スポーツやビジネスや、医療の中でも「アンチエイジング」がテーマだった今回の講演は、全てがテンポも歯切れもよく語られていて、久しぶりに元気が出たような気持ちになったのでした。シンプルで分かりやすく、その分ストレートに伝わってくるコーチングの魅力を再認識しました。脳科学と関連付けたコーチングの効果についても言及されており、今後はますます研究が進んでいくだろう、という期待が膨らみました。その後で、友人のもとに向かったのです。
友人のご主人の闘病は年余にわたり、様々な医療機関にかかっています。毎日が死と向き合う生活をしていました。私はそのご主人を支え続けている友人が、気にかかっていました。夫の闘病だけではなく、家業のことでも山のような責任を負っています。しかも誰にも愚痴をこぼさない人で、この友人にとっては私が唯一の話し相手のようでした。ご主人もそのことを知っているようで、それとはなしに私に妻(友人)を託しているようなところが、伺われていました。
いつも私は友人として話を聞きますので、フランクな雑談も入りますし、話題も多岐に渡ります。ですから昨夜も、講演で聞いてきたコーチングの一般原則「私的な会話はしない」とは大きく外れて、「私的な話ばかり」でした。コーチングフローも、その時の私の頭にはありません。何時間も友人は、時に目を赤く潤ませながらも感情に流されることなく、話し続けました。
この自分の行為が「コーチング」と呼べるのかどうかは分かりませんが、コーチングスキルを使っている、とは意識していました。それが「ケアする人(友人)をケアする」行為であってくれればいい、と思っています。
年次大会では、伊藤守氏がコーチングについて「様々な定義があるが」という前置きと共に、「人材(人財?)開発の手法」と説明していました。ビジネスコーチングにおけるシンプルで分かりやすい定義です。私は、コーチの語源「大切な人(クライアント)を馬車(コーチ)に乗せて目的地まで送り届ける」が、自分にフィットするイメージだと思っています。
別れ際の友人の目には、これからの覚悟と決意が見て取れました。彼女には元々そのような強さが備わっていたのですが、この数時間の中でいくらかはサポートができたのかもしれません。同じ日の年次大会とお見舞い、私にとってはコーチングについて改めて振り返ることとなった貴重な経験でした。