2012年1月15日日曜日

「とんでもない会話」の背景は?


 


かなり前のことですが、セラピストと患者さんのこんな会話が耳に入ってきました。


セラピスト「今の若い人は、高い税金を取られて、年金だって払った分もらえない。人間、50歳くらいで死ねるのが一番いいよね」。
患者「・・・・・・」(何と応答したのか、しなかったのか、聞こえませんでしたが)。

 セラピストは30代。患者さんは70代です。何故そんな会話に行きついたのか、前後の文脈は分かりません。けれども、当の患者さんや周囲にいる人たちに、どれだけこの言葉がダメージを与えたのか、を考えると憤りを覚えました(当然、厳重に注意をしましたが)。

 話した本人は、最初注意された意味が分からなかったようです。気心の知れた患者と雑談のついでに「本音」を語った、といった風で、注意されたことに対してそれほどピンときているようには見えませんでした。不真面目に仕事をしているわけでもありません。むしろ、よく機転が利いてチームへの貢献もできる人です。



 一瞬の出来事でしたが、今でも時々思い出します。そこには、いくつかの課題がありました。


*患者とセラピストの距離の問題:

同じ患者と長く関わることによって、セラピストは適切な距離を維持することが困難になり、つい素顔(本音)が出てしまう。それがメリットになることもありますが、この場合はデメリットになっています。気を許しすぎて立場を忘れ、言ってはいけないことを言っていることにも気付いていない。

 このような2者関係は、長期的な関わりの中で起こりがち。今後、介護保険分野でリハビリテーションの人的資源が潤沢になり、期限にも縛られず、他者の目も届かない状況下(在宅療法など)では、ますます2者間の距離を維持するためのスキルが必要になる、と予想しています。


*周囲への影響:

周囲とはたとえば、常連客が指定席に座り店主を独占しているお店に入った一見客、のような存在。この一見客の疎外感を、店主は意識しているのかいないのか。なじみのうすい患者は、同じ時間と空間で、セラピストの対応が微妙に違うことを敏感に察知していますが、セラピストは案外意識していない。

質の高いホスピタリティとは、クライアントに対して差別観や疎外感を与えないこと。これを実現させるには、ハード・ソフト両面での様々な条件を整える必要があります。すでに接遇マナーをはじめとする取り組みはされていますが、それだけでは十分ではないことを、改めて知る機会となりました。


*リーダーとしての気づき:

#1.彼らが今置かれているこの閉塞感に満ちた状況に、どれほどストレスを感じているか、は日々耳に入っていました。が、この様子では、臨床の場で本人も気がつかずに発散をしている可能性があります。「理想」と「現実」には当然ギャップがあります(理想と現実は「建て前」と「本音」とも言える)。本人が、自分の無意識の感情をキャッチしていないこともありますので、リーダーがこのギャップを知り、フィードバックをすることが必要です。

 #2.一方で、セラピストのストレスレベルとコントロール能力は、どのくらいあるのでしょうか。思ってもいない言葉が口から出たり、言ってはいけない、と分かっていても抑えきれないこともあります。このような時、本人には、プライベートな問題があるのかもしれないし、職場への不満があるのかもしれない。そもそも、仕事に対する価値観が違うのかもしれない。将来への不安がそうさせるのかもしれない。どれもが当てはまるような気もします。様々な仮説を立て、時を変え、場面を変えて検証をする。少なくともそうしている間は、短絡的な評価を下さずにすみます(かなりエネルギーの要ることですが)。



 *あれから:
 
 
 あの時は厳重注意をしましたが、それだけでは根本的に何も変わりません。注意するだけで改善するような、ケアレスミスではないからです。詳しいことは省略しますが、その後、セラピストに伝わった、と感じられたのは「共感」と「承認」から出た言葉でした(それができたのは、しばらくたってからですが)。

 
 
 

  今でも、あの時にセラピストの口から出たのは、単なる個人的な本音ではない、と思っています。同世代の人たちが、多かれ少なかれ抱いている気持ちを率直に口にしたのでしょう。とはいえ、井戸端会議で好きなことをしゃべってストレスを発散するのと、この場合ではわけが違います。対人援助を旨とする専門職としても、職場の理念からも、そのような言動を許容することはできませんから、同じような場面に遭遇した時は、指導をしていきます。

ただ、誤解を恐れずに言えば、「思ってはいけない」のではなく、自分の本音に対して自覚的であることが、セルフコントロールには大切です。これは、口で言うほど簡単なことではありませんが。さらに、表出する時と場を心得ることが「社会人としてのファウンデーション(土台)」です。簡単に身につけることはできないにしても。


様々な経験の中で醸成されていく価値観や、死生観があります。5年先、10年先に、冒頭のセラピストが患者さんとどんな会話をしているのだろう、と楽しみにしています。
 


2012年1月9日月曜日

「限界を知る・価値観が変わる」




前回のブログの更新から3週間が過ぎました。月ばかりか年まで越してしまっています。それまでは、次から次へと書きたいことがあふれ出ていたのに、パッタリ、うそのように頭の中が白紙になり、(これはスランプ?)書く代わりに、いくらでも眠れました。自分の記憶の中でもこんなに眠ったことはないほど。年末年始は体の要求に逆らわずに、眠ることを最優先にしました。「これは、頑張りすぎた疲れかもしれない」と、少し自分を労わりながら。





 昨年は、コーチングの有効性を知ってもらいたい、と非力ながらも自分にできる範囲の活動をしました。こんなに眠いのは、使い果たしたエネルギーを充電するためのものかもしれない、そう思いました。でも、実はどこかで「限界」を感じ始めてもいたのです。





 本当は、どなたが読んで下さるのか分からないブログに、コーチング絡みで「限界」などという言葉を書きたくないのですが。





 日常の業務や生活の中にストレスがあるのは当然のことですが、改めてそれ以外のどんなことに自分がこれほどの影響を受けていたのかを、振り返ってみます。




*今や特別のことではなくなった電車の人身事故の向こうには、年間3万人以上の自殺者がいます(もちろん、電車だけではありませんが)。この状況が10年以上も続いているのは、周知の事実。その数は毎年毎年、昨年の大震災の犠牲者を上回っています。この事実に気づかされ、予備軍や未遂者が既遂者の何倍いるのか、またその周囲に家族や知人がどれだけいるのか、を想像しました。私がどんなに想像力を働かせても、把握できるはずもないのですが。

自殺のリスクには、失業のほか配置転換、過労、昇進、破産、人間関係、その他実に様々なものがあります。そう考えると、人に向かって状況を知りもせずに「あなたの目標は?」などとは聞けなくなりますし、聞いてはいけないような気がしてきます。元々私にはエッジの効いた質問はできないのですが、これからはますますそうなりそうです。




*被災地で働く看護師の3分の1にPTSDが懸念される状態が、また3分の2に「うつ」につながりかねない「精神的不健康度」の高い人がいる(’11,12,30 朝日新聞)。

それでなくともバーンアウトに陥るリスクの高い看護師が、被災地では殆ど余力のない状態で、臨床に携わっているらしい。この傾向は長期化が予想されますし、今後ますます顕在化するでしょう。「ケアをする人のためのケア」が必要ですが、ここにコーチングを活用する場合には、コーチにコーチングフローの「ステップ0に居続ける能力」が求められます。また、それは他の(例えば、カウンセリングや緩和ケアにおける)手法と極めて似ているために、「これは(も)コーチング」と説明できるだけの根拠を必要としますが、自分の中ではまだ、説得力のある説明が難しい。


Twitterの書き込みには、「被災地の人は、みんな頑張って明るく振舞っている。けれども、疲れ果てている」とありました。当地に深く関わればこそ見えてくる事実なのでしょう。

明るく元気に振舞っているからといって、その人が本当に力のある状態、とは限りません。活力のあるように見える人が、突然駅のホームから身を投げることもあります。人は自分の全てを他者の前で表現しているわけではないからです。元気印のハイテンション(躁状態)とうつは、表裏一体。とすれば、「行動を促進しなければ」と意欲的に見えるクライアントの真の力量をアセスメントすることも、コーチには求められるのではないだろうか。クライアントの「心が折れる」前に。







いずれも、今の自分に直接関わりのある情報ではないのですが、時代の空気として少しずつ体の中に浸透してきますし、たぶんボディーブローのように効いてきているのでしょう。コーチングの実践と絡めて考えていますが、結果的に自分のエネルギーレベルは、低下しているような気がしますし、睡眠過多もその影響が大きい、と思っています。



もっとも、「時代の空気」から影響を受けているのは、私だけではないでしょう。私と関わっている人たちにしても、こちらから見えているのは氷山の一角ですが、水面下ではメンタリティやストレス耐性が低下しているかもしれない。何となくチームや組織全体のパフォーマンスが低下しているように感じられる時には、現場以外の様々な背景を考慮する必要がありますが、その中には直接的・間接的な「時代の空気」も含まれているでしょう。そのことを度外視して、現場の個人だけをコーチングの対象にしていても、事は運ばない。





ところで先日、ある方から、目が覚めるようなこんな言葉をいただきました。「機能維持は、廃用症候群からの回復です」。これは、障碍者の機能や生活を維持することが軽んじられている風潮に対して発せられたものです。この言葉は、何かを維持することの困難さと、「右肩上がりだけに、価値があるのではない」ことを教えてくれました。また、この視点は、臨床だけではなく職場の「目標管理」にも通じるものです。いただいた言葉に後押しされて、私の価値観は、ずいぶん変わりました。





コーチングは人材開発や育成に有効だと言われます。私の経験でも、コーチングが効果的に機能するクライアントがいることは、実感できました。予定よりも短期間に、予想よりも高い目標に到達してくれた時には、コーチ役の私まで嬉しくなります。元々力のあるクライアントだったのでしょう。

一方、それほどの余力もなく、未来を見ることもあまりしていない人たちが、10歩先ではなく、3歩先でもなく、未来に漠然とした不安を持ちながら、足元だけを眺めて歩いています(そのように、見えます)。このような人にどんなアプローチができるのか。あるいは、できないのか。今の私には答えが見つかりませんが、避けて通るわけにもいかないような気がしています。


色々なことがありましたが、以上のようなプロセスを経て、私は今年の課題を「ストレスコントロール」と「ブラッシュアップ」にしました。





このブログを書く気になったところで一段、ここまで書いてきたことでもう一段、エネルギーレベルが上がりました。今年の年末に、今日のブログをどんな状況で読み返すのか、が楽しみでもあり、ほどよい緊張もしています。




それでは、今日はこの辺で。