最近(というより、かなり前から)、医療従事者がクライアントのことを「患者様」と呼ぶようになった。セラピストが学会発表の場で、「患者様」と口述発表することも珍しくない。社会人としての第一段階で、接遇研修などを通じてそのように教育されているのだろう。セラピストはこの言葉を使うことに、取り立てて抵抗を感じてはいないようだ。一方で今でもクライアントと「タメ口」で会話をしている所もある、と聞く。ちなみに、タメ口の意味は、以下の通り。
タメ口とは「対等」「同じ」を意味する俗語『タメ』に『口(口ぶり)』をつけたもので、対等な言葉使い、つまり友達口調を意味する(日本語俗語辞書より)
「患者様」にも「タメ口」にも、セラピストとクライアントの関係性が如実に表れている。とても気になる部分だ。一見双方の態度には大きな隔たりがあるようだが、クライアントとセラピストが対等ではない、という意味においては同じである。どちらも両者が、各々の役割を踏まえた上で対等な立場であれば、出てこない言葉のような気がする。
医師が学会発表をする場合、「患者様」と表現している場面が思い当たらない(中にはあるのかもしれませんが)。多くは匿名のイニシャルに「さん」をつけるか、「患者」あるいは「患者さん」と呼んでいる。医師はクライアントの呼び方を自分で選択しているのだろう。医師の仕事の多くは決定と指示にあるが、それでも最近はトップダウンの物言いでは、クライアントに受け入れられないし効果的でもない、というエビデンスが出てきた。治療効果を最大限に上げるために、医師も「コミュニケーションスキル」(コーチング、など)を学び始めている、と聞く。ところでセラピストは「患者様」という呼び方を、自分で選択しているのだろうか。
同じセラピストでも起業家の場合、クライアントに対する自分の立ち位置を自覚した上で、「患者様」と呼ぶことには聞いていて抵抗がない。何故だろう。この場合は、使う人が自分で言葉を選んでいる。自分が提供するサービスの一貫として、その言葉を主体的に使っている。ホテルや銀行で従業員の口からなめらかに「お客様」という言葉が出てくるのと似ている。つまり言動が一致している、ということだろう。
「タメ口」には「対等」とか「同じ」という意味があるが、この言葉を使っているセラピストからは、クライアントと適切な距離や「礼節」が保たれている、ようには感じられない。なれあい、なぁなぁ、という緊張感の抜けたイメージが浮かぶ。もちろん治療場面において、「タメ口」が最も効果を上げる適切な表現である、という自覚的な判断の下に使用している場合は、別ですが。ただ、自覚的に、あえて基本をはずしてまで「タメ口」を使える場面は、そんなに多くはない、のでは? しかも、「効果的」と思っているのはセラピストの側だけで、果たしてクライアントはどう思っているのか。(ご興味のある方は、「リハビリの結果と責任」<池ノ上寛太>などが参考になるかもしれません)。
以下は、私の中にある数々の苦い経験のひとつ。
以前(の話、が多くて恐縮ですが)、また若くて(?)世間知らずの私は、自分とクライアントが同じ目標を目指して頑張っている、と思い込んでいた。自分の誠意は通じているし、だからこそクライアントもあれだけ一生懸命私の立てたプログラムに従って、課題に取り組んでいてくれる。そんな思い込みがとんでもない勘違いであることに気付いたのは、ある風景を見た時だった。その頃は、まだ院内に喫煙所が設けられていた(どれだけ昔の話?)。ある日の夕方、偶然その喫煙所の側を通った私は、そこで文字通り車座になった車椅子集団(脊髄損傷の人たち)が、ゆっくりと煙草をくゆらせているところに遭遇した。いつもの日常の風景だったが、私はその時はっとした。「全然違う・・・・・・」。
リハ室や病室でのいつもの顔とは、全く違う。たとえて言えば、役者が舞台を降りて化粧を落とした時の、放心しているような顔に見えた。車座の集団は、お互いに言葉を交わすわけでもなく、ただ不自由な手で(頚損の人もいました)煙草の火を分け合っていた。その場を流れていた不思議な連帯感は、それまでに知ることのできないものだった。
それまでの私は、クライアントとの距離を自分からこれ以上ないくらい接近させ(たつもりで)、気持ちの上では「タメ口」をたたき続けていた。しかも、上から目線で。それを、私は「対等な立場」と勘違いし、クライアントが「いやです」とは言えない立場であることに、気づいていなかった。あの風景は、一瞬でそのことを教えてくれたような気がする。
対等な関係性とは、本当に難しい。私が「患者様」と呼ぶ時の目線は、クライアントと同レベルだろうか。恐らく違う。使う言葉は適切な距離感を表現しているだろうか。クライアントのテンションに私のペースは合っているだろうか。合わせるだけではなく、必要な時クライアントのテンションを上げるために、私は自分のトーンをどのようにコントロールしているのだろうか。クライアントの話は、聴けているだろうか。アイスブレークのつもりで、実は自分の話を聞かせていないだろうか。聞き役はどちらだったのか。
「治療的道具」としての自分に、自覚的であること。道具は、磨き続けなければ錆びてしまうこと。そして、自分の姿は他者という「鏡」を使わなければ、容易につかむことができない、ということ、を折に触れて自分に言い聞かせている。一生手入れの要らない、錆びない道具になれたら、どんなに楽だろうか、と思いながら。
最近は、コミュニケーションスキルが、国家試験の問題にも登場するようになったそうですね。今一度、「患者様」と呼ぶ時の自分の心性(心の在り方)を、考えてみませんか。ちなみに、タメ口は、原則NG!です。