2012年4月30日月曜日

聖域なき仕事(作業療法)と identity crisis


 

 最近参加したセミナーで、「自分の仕事を中学生にも分かるように、1分間で話す」という課題に取り組みました。そこには歯科医師や営業担当を始め色々な職種の人たちがいましたが、その中で「作業療法(OT)」を伝えることの難しさと、伝わらないもどかしさを実感しました。





 その理由を挙げてみますと、


1、OTの対象や内容・手段が広範囲なため、聞き手に対して一言で説明することが難しい。
2、聞き手にはOTに対する情報がないため、イメージが浸透していない。
3、聖域がないので、特徴を表わしにくい。





 言うまでもないことですが、少し説明をしますと、


1、OTの対象や内容・手段が広範囲なため、聞き手に対して一言で説明することが難しい


クライアントの年齢:新生児から高齢者まで。
分野:身体障害、精神障害、発達障害、老年期障害、etc
対象疾患:内科、脳神経外科、整形外科、精神科、神経内科、etc
病期:急性期~終末期
手段:セラピーの原動力として作業を用いる(一例)


中でも最後の「作業」の説明が一番難しい。



2、聞き手にはOTに対する情報がないため、イメージが浸透していない


 自分自身や身内の人にリハビリテーション(以下:リハビリ)を受けた、という経験がなければ、今でも「リハビリ・・・・あっ、そうですかぁ」と、あまりピンときていないという反応が返ってきます(元気な人たちが多く集まる場所では特にそう)。昔と違い、今や「リハビリ」は立派に市民権を得ている(はず)と思っていたので、この反応には驚きました。これでは、OTを話しても伝わらないのは無理もないことです。

 ささやかなリベンジとして「皆さんが私のところにいらっしゃるのは具合の悪い時ですから、仕事上でお会いしない方が良いのです」と言いましたが、これではOTの肯定的(健康的)な側面が伝わりません(失敗しました。以後、気をつけなければ)。



3、聖域がないので、特徴を表わしにくい


 聖域には「聖人地位または境地」の他に「それに触れてはならないとされている問題領域」という意味があります。私たちの仕事は「名称独占」はできても「業務独占」はできません。つまり、他者から「聖域」と認識されているものがそれほど多くないのです。同じ国家資格ではあっても、医師や看護師を始めとする「聖域」のある職種とはこの点が明らかに違います。「例えば」と前置きして「誰もが当たり前にしていること(トイレに行く、お風呂に入る)を、治療手段にしています」と言っても、恐らく聞き手には伝わらないでしょうし、私たちがしていることの大半は形の上では他職種にもできることなので(と、書くと叱られるかもしれませんが)、その中で「OT」の特徴を短時間に分かりやすく話すことは、大変難しい課題でした。





 ここまで「難しい」を連呼してきましたが、この課題は私だけのものではありません(もちろん、OTだけが特殊なわけでもありません)。むしろ、職域が未分化で聖域が狭い(あるいは、ない)ということは、多くの職種に共通しています。



 国家資格さえ取得すれば聖域(安全地帯)が手に入る、と頑張ってきた新人の中には、それが幻想や錯覚であることに気がついて、深刻なidentity crisisに陥っている人もいるかもしれません。大いに失望している人もいるでしょう。けれども、他者との差別化を図るのは今や資格ではなく、「その人」自身の課題ということになります。「曖昧さの中に居続けるには、能力がいる」と言われますが、その能力があればきっと成長していけます。

 例えば、水面に浮かんだ氷塊がいずれ消えてなくなる流氷なのか、海底にまで届く氷山なのか、初めは分からなくとも、時が流れ季節が変われば次第にはっきりしてくるように。





 お話を元に戻します。

 今回、私が学んだことは、


1、   世の中には、聖域のない仕事の方が圧倒的に多い。

2、  自分の仕事を他者に説明し理解してもらうことはどんな職種でも難しく、
 伝えるためのスキルが必要になる。

3、  必要なのはスキルだけではない。「熱い思い」は必ず伝わる。


です。


 異業種の方の前で自分の仕事を語り、視点を変えることができた、良い経験になりました。

 それでは、この辺で。

2012年4月22日日曜日

スーパーバイザーも悩んでいる


 実習生を指導しているスーパーバイザー(SV)から相談を受けました。「学生は、素直で真面目ですが、指導された課題(宿題)をやってこないことが多く、そのことにあまり後ろめたさを感じていないようです。自分が学生の時はもっと頑張ってきた、と思うのでどう対応したら良いのか、悩んでしまいます」。このような相談は、珍しいことではありません。



 昨年1年間、私は養成校の先生向けのグレードアップ講座で、教育現場の様々なお話を伺いました。中でも「実習地に臨む学生は、さながら戦地に赴く戦士のような悲壮な覚悟と緊張感をもっている」という内容には、とても驚いたものです。実習生がそんな状態でいるとは、考えたこともありませんでした。



 けれども、実習地不足の中でやっと手に入れたこの機会にもし不合格にでもなれば1年を棒に振るかもしれない、というプレッシャーがどれほどのものか、は想像に難くありません。それが何年か前まで同じ実習生だったはずの先輩方に伝わらないのは、どうしたことでしょう。「SVは、自分が学生だった頃のことを忘れている」とは、ある教官のつぶやきですが、とにかくSVから見える学生は、「淡々とできる範囲でマイペースに実習をこなしている、あまり無理をしない存在」なのです。



 もちろん、SVは真剣に指導をしようとしています。特に、「できるだけ学生の主体性を尊重しよう」というスタンスの人ほど、自分の中にある「せめてこのくらいはクリアして欲しい」という思いと学生の態度のギャップに悩んでいるのです。



 ここで少し、両者のギャップについて考えてみましょう。



 最初に学生の立場から。



学生にとって最も身近で現実的なゴールは、「国家試験に合格すること」です。そのためには、学科の単位を取得し、実習に合格し、卒論を仕上げ、無事卒業をしなければなりません。その間に進路を決め、就活もします。中には同時進行が難しいので、国家試験を終えてから就活を始める人も珍しくないそうです。特に実習は最もハードルの高い課題ですから、余裕のない学生にとっての就活は実習を終えてからでなければ始まりません。

ところで、実習の合格ラインはどのあたりに設定されているのでしょうか。養成校によって多少の違いはあるものの、今なら年間理学療法士で10000人、作業療法士なら5000人の有資格者を産出できるハードルの高さ、ということになります。そのために学校では「不合格にならないための、合格最低ライン」を設定していますから、学生は常にそれを意識しているもの、と思われます。



次にSVの立場から。



SVは様々な理由で実習指導を引き受けますが、実習生に求める合格ラインは一般的に養成校が設定しているものより高めで、学生が最終学年であれば「来年同僚として一緒に働くなら、せめてこのくらいは」というレベルを想定しています。ここには、自分が実習で辛くても頑張った経験や、今の自分のレベルが基準となっていることが多いのですが、それをSV自身はあまり意識していません。



「無事に通過することが目標」の学生が、「学生に全力投球をしてもらうことを求める」SVに出会った時、様々な軋轢に何とか耐え抜いた学生なら「歯を食いしばって頑張った」体育会系のド根性をお土産に持ち帰ることになります。自信をつける貴重な経験になるかもしれませんが、恐らく自分がSVになった時には、同じような指導をするでしょう。また、それに耐えられなかった学生は途中棄権せざるを得ません。





こうしてみると、双方のベクトルは最初から合っていない。たぶん、教育制度の矛盾や問題点が実習現場で表面化しているのでしょうが、そこに原因を求めたところで現状をすぐに変えることはできません。ギャップが埋まらないままに、学生は出席日数をクリアし規定のレポートを作成し、ほとんどが実習に合格して卒業し、国家試験に通り、臨床で働くことができます。「今時の学生は、分からない」と言っているばかりでは、遠からず世代間ギャップに苦しむことになるでしょう。



何故複数の先輩から違うことを言われても、学生が「はい」とだけ返事をしているのか、を考えてみました。このような場合、複数の視点を持つというメリットと共に、学生は「臨床には、唯一正しい答えというものがない」ことを知り、「それはおかしい」とか「違うのでは」と言えない立場上、ダブルバインドどころかトリプルバインドに陥っている可能性があります。「あの学生は、元気がない」と言われても、仕方がありません。







実習が始まって2週間も過ぎたころ、実技指導の時間に学生がスタッフとお互いの体をマッサージし合いました。「ずい分しっかりした大腿ね。何かスポーツをしているの?」「はい、小さい頃からサッカーを」。やっと、にっこり笑ってくれました(そうか、やっぱり今まで緊張していたんだ)。





以下は、相談をしてきたSVへの質問です。



1、   「せめてこのくらいは」というゴールを、具体的にイメージして下さい。

2、   そのゴールは、今の学生のスキルで、実習期間中に到達可能ですか。

3、   SVのゴールは、学生のゴールとベクトルが合っていますか。また、学生はそのゴールに同意していますか。

4、   実習期間中のタイムスケジュールは、どのようになりますか。

5、   では、何から始めますか。





 SVは「やってみます」と言いました。実習生へのコーチングは、SVがするでしょう。双方のベクトルが一致することを期待しています。


2012年4月2日月曜日

中間管理職になったセラピストのゆううつ


 
 今年も国家試験の発表が終わり、新人理学療法士が10000人、作業療法士が5000人誕生しました。ハードな授業や実習を乗り越え、国家試験対策に追われながら、ようやく目指すゴールに辿り着いたことになります。きっと全国のあちらこちらで、お互いの健闘をたたえ、祝杯を交わし合っているでしょう。新人を迎え入れる私たちも、大丈夫だろう、とは思いつつ、「合格」の連絡が入るまでは何かと落ち着かない日々を送っていましたので、これでようやく一安心できます。



 ところで、時期を同じくしてSNSで中堅・作業療法士の書き込みを目にしました。ご本人の了解をいただき、内容の一部をご紹介します。




  今年に入って、主任という役割が振られた。
年度末のスタッフ面接に同席することにもなり、
後輩の仕事に対する悩みを数多く聞くようになった。
一部の若手スタッフからは、「今の仕事で楽しいと感じない」
「なんでこの職業に就いたのか・・・」という声が聞かれる。

  私自身も、胸をはって作業療法のここにやりがいを持っている、と話せるほどの内容を提供できているとは思わない。常に悩みながら10年が過ぎた。
何度も辞めよう、と思ったし、今でも他の職業の適性を調べてみたりして、気持ちが作業療法に向き合わない日もある。


  患者さんの人生に関わらせていただく一方で、自分の人生や家族の生活は二の次になり、自己嫌悪に陥ることも。そんな私が、後輩に作業療法という仕事の面白さを伝えモチベーションを上げるなんて、どうしたらいいのか、自信がない。

  最近は、管理業務や会議に押されて、自分の担当患者さんとも
まともに向き合うこともできなくなってきているし、臨床技術も、遅れをとっているようで焦りもある・・・・・・(一部、変更・省略)。




  SNSに紹介されている年齢から考えると、彼女も10年前は合格発表で祝杯をあげた組だったはずです。自分の未来にこんな試練が待っているとは、全く予想もしていなかったでしょう。けれどもこれは特殊な例ではありません。



その理由について、いくつか書き出してみますと、


*本人が望んでいない昇格
*それが子育ての時期と重なっている
*まだ専門職としてのidentityが確立していない、あるいは、
  スランプに陥っている時期
*後輩のモデルになれない焦り
*後輩を指導できない不安
*管理業務の指導・教育を受けていない・・・・・・・・・・・・etc.

  東北大学の辻一郎先生によりますと、2006年に宮城県内のある市で40歳以上にアンケート調査をしたところ、心理的苦痛を感じている頻度が70歳以上でトップだったというのは頷けるにしても、次に高率だったのが40歳代だという驚きの結果が出たそうです。また、これはこの地方特有の結果ではなく、2007年に厚労省が行った「国民生活基礎調査」でも、25歳~34歳に、他の年齢層に比べて心の健康度が低い傾向が出た、とのことでした。これらのデータ―は震災前のものですから、今同じ調査をすればどんな結果が出るのかは分かりませんが、少なくとも若者~中堅層のメンタリティが低下していることを表していることは確かでしょう。

 中堅セラピストも、ちょうどこの年齢層に組み込まれています。
 以前と比べれば、出版されている専門書籍の数も卒後教育の機会も、手に入れられる情報の量も格段に多くなっていますが、それでも中間管理職のゆううつ(時には、悲鳴)は軽減する気配がありません。背景には、有資格者の数が増えて、競争原理が働いていること。終身雇用制度が過去のものになり、年功序列で昇進する保証がなくなったこと。社会保障制度そのものが不安定になっているために、将来の見通しが立たないこと、など様々な要因が考えられます。
 書き込みの件にお話を戻しますと、内容については以前から予想していたものの、「やはり、そこまできているのか」という落ち着かない気持ちになります。これは誰もが辿る道なのか、それとも専門職の宿命なのか、あるいは時代がそうさせているのか。

 この書き込みを使わせていただく了解を取るために、ご本人とメールを交換しました。
書き込みの深刻さとはうらはらに、元気で頑張っている、という印象を与える文面です。とすると、現場で張り切っている中堅セラピストも、表には出さないところで疲弊をしているかもしれません。
 先輩方の経験知を活かすことは、できないものでしょうか。そんなことを考えさせられました。と同時に、各自がこれらのことを予め想定しておく、ということも必要だと思っています。今すぐに解決することができなくても、できる範囲で対策を考え続けることができるからです。



 
  参考書籍:病気にかかりやすい「性格」(朝日新書  辻 一郎)